2008年3月7日金曜日

頑張らない

昔、まだ俺が高校生で部活動に汗を流していたころ、

「頑張れ、なんて無責任な事は言うな!」

と顧問に怒られたことがあります。
この人は当時まだ若くて、学生時代に応援団の団長として鍛えた精神で軟弱な俺らをピシピシ鍛えてくれた人でもあります。

<頑張れ>
ってのは便利な言葉で、 テキトーにがんばれがんばれ、と言っていたのが気に入らなかったんでしょう。
それ以来<頑張れ>を使うのに気を使うようになったんです。
たしかに何かをするという具体性にかけていて、無責任ですよね?

村上龍曰く
「昔はそれでよかったのだけど、最近は頑張るだけでは駄目になった。」
だ、そうです。

昔は「あの人は頑張ってるからね」という評価があって、
それがそのまま認められていたのだけど、
今は頑張っているだけでは駄目で、具体的な能力が問われる実力社会になって来たわけです。

俺もやっぱり「頑張れ」はあまり好きでなくて、何かこう頑張っている自分に満足してしまい、それが「逃げ」に甘えてしまうような気がするんです。
いい仕事をするためには、きつい状況でも何処かに余裕を持たないとできないもんです。

イタリア時代、夏に死ぬほど忙しくて、外国に一人だし、多分ノイローゼになったことがあるのですが、
それでも働いていられたのは彼らの底抜けの明るさがあったからだと思います。

そんな彼らのバイタリティはすごいですよ。
そしてみんなしたたかで、狡猾です。
業務上横領や、職権乱用、えこひいきは当たり前で、脱税なんかも日常茶飯事です。

彼らの生活は基本的に「信用」の上に成り立っていないんです。

彼らは一見、仲がよさそうですが、相手のことをまったく信用していません。
わかりやすく言うと、「騙される方が悪い」のです。

だまされる間抜けのように、「弱い」事は「悪」ですらあります。

それではどうやって社会が成り立っているのかというと、
彼らはとても「寛容」なんです。
失敗に対して、とても寛容なんです。
日本のように社会的に追い詰められたりしません。

汝、敵を許せよ。

相手だけでなく、自分の過失も許しまくりです。
責任を取らない彼らは、 我々から見るととても不様に見えるかも知れません。
でも彼らは少なくとも「頑張れ」なんて言葉に熱くなったりしません。
騙すか騙されるかの現実に、そんな感傷は無意味なんです。

相手を信用できないなんて、殺伐な空気になりそうなものですが、 底抜けに明るいんです。
そしてとても感情が豊かです。

ただのアホの様に見えますが、その「笑い」の裏には重い現実があるんです。
友達や、上司が信用できないのに、あなたは笑っていられますか?
これがバイタリティってもんです。
頑張ってなんていられないのです。
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